日本人に対して三島事件が遺したもの

國のあり方

昭和45年11月25日

東部方面総監部で、自衛隊員に「決起を促す演説」をする三島由紀夫

 昭和45年11月25日、東京新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に、作家の三島由紀夫と同人が主宰していた学生を中心に構成される自衛隊を支援する民間組織、「楯の会」のメンバー3人が同総監を訪問した。部屋の中で突然、総監を縛り上げて監禁状態にして、立てこもった。その後、バルコニーに移動、演説開始、訴えたのは日本国憲法の廃絶、そのための自衛隊の決起であった。「決起」とは事実上のクーデターを意味していると当時も現在も理解されている。三島は行政組織に過ぎない「自衛隊の存在」に強い疑問を投げかけ、「日本国軍」とならねばならないと訴えた。自衛隊員、防衛庁職員らが集まり、怒号が飛ぶ中、演説の最後に、三島は皇居に向かって、「天皇陛下、万歳」を叫び、バルコニーから総監室に戻り、楯の会の制服上着を脱ぎ、日本刀で自ら腹を切り、自刃を試みた。絶命する前の「切腹」の途中で、楯の会の学生が三島を日本刀で介錯して、三島の首は床に落ち、三島は絶命した。楯の会の学生、森田必勝も割腹自刃した。

三島由紀夫が割腹自刃した後に、運び出される遺体が入った棺
バルコニーでの演説

生い立ち

昭和43年、ノーベル文学賞を受賞した川端康成と三島由紀夫

 ノーベル文学賞は確実と言われた作家、三島由紀夫がなぜ、斯くも凄まじい最期を遂げなければならなかったのか、まだ、日露戦争(1904年)、大東亜戦争(1940~1945)を体験した日本人が多く、存命していた時代であった。大東亜戦争で、建国有史以来の悲惨無念極まる敗戦を体験、焦土と化した故郷、そして母国の惨状にも敢然と対峙し、300万人の同胞英霊の犠牲の無念を想い、平和の価値を理解し、一憶総国民が各分野で激務に耐えて、利益を分かち合い、結果、世界第二位の経済大国に奇跡の復興復活を遂げた時代であった。しかし、反面、「昭和元禄」と呼ばれた当時の奢侈贅沢、規律が乱れ、「消費は美徳」という「物質文明」に毒された当時、三島は「自刃による壮絶な自死」で重要な何かを日本国民に突きつけた。三島が愛したもの、それは帝国陸海軍であり、大日本帝国憲法であり、神風特攻隊であり、「デカンショ」と呼ばれた「カルト、カント、ショーペンハウエル」という獨逸観念哲学の3大哲人の獨逸語の原書を何日も徹夜で読破した旧制高校學徒の學門への情熱であり、誠実・温厚・互助の精神を持つ日本人であり、そして、三島にとって最高の価値を持つもの、命を捨てても守り抜くもの、それが「天皇を国父とする日本」であった。この真意は後に掲載する三島の檄文にそのまま、表現されている。
 三島由紀夫は本名、平岡公威(ひらおかきみたけ)と言った。
大正14年(昭和元年)1月14日、東京都新宿区四谷に生まれる。父、平岡梓(あずさ)は農商務省の官僚、祖父の定太郎は福島県知事を経て、樺太庁長官を務めるなど優秀な一家であった。樺太は現在のロシア領サハリン州である。

学習院初等科時代の三島由紀夫

父、平岡梓(あずさ)は農商務省の官僚、祖父の定太郎は福島県知事を経て、樺太庁長官を務めるなど優秀な一家であった。樺太は現在のロシア領サハリン州である。公威は祖母の家に強引に引き取られ、その影響下で、病弱でひ弱な読書好きの少年となり、1931年(昭和6年)、学習院初等科に入学、学習院は当時、日露戦争を勝利に導いた帝国陸軍の雄、乃木希典(のぎまれすけ)が院長を務めたこともあり、剛毅鍛錬、質実剛健の学風で心身錬磨の行事が多く、体格も体力も弱い公威には苦しい学校生活だった。公威は昭和12年4月、学習院中等科に進学、祖母の家から両親妹弟の住む家に移り、本格的に小説や詩を書き始めた。昭和13年に平安文学の研究者の清水文雄が公威の在籍する学習院中等科の国文法と作文の授業の担当となり、公威に文学を指導、公威にとっては初めての文学の師となる。
 清水は雑誌「文芸文化」を創刊するなど、学外でも活躍、「文芸文化」を清水と共に創刊したのが国文学者の蓮田善明(はすだぜんめい)だった。

恩師から受け継ぐ死生観

 この「文芸文化」に清水が推薦して、公威が書いた小説、「花ざかりの森」が4回、連載された。蓮田善明は16歳の天才少年の出現を〈悠久な日本の歴史のもうし子〉〈われわれ自身の年少者〉と高く評価した。伊豆の修善寺で開かれた「文芸文化」の編集会議で、平岡公威の筆名(ペンネーム)の考案が提案された。出席者からは①修善寺に来る前に国鉄三島駅を通過し、②富士山が白雪で美しかった点が披露され、平岡公威少年のペンネームが自然に「三島ゆきお=雪お」でほぼ固まり、最終的に「三島由紀夫」となった。三島は蓮田から同時に文学以外の日本の心に関しても指導を受けた。三島は特に、蓮田の説く崇高な〈皇国思想〉〈やまとごころ〉〈みやび〉などの意味に強い共感を持った。
 大東亜戦争で蓮田が2度目の召集された際、蓮田は三島に「日本のあとのこと」を託したとされる。三島の才能を世に広めた蓮田はこの召集で、マレー半島南端のジョホールバル駐屯中に敗戦を迎えた。この時に蓮田は「敗戦の責任は天皇にある」と連隊長・中条豊馬(なかじょうとよま)が天皇陛下を侮辱したことに憤慨して、中条を射殺して、山中に逃走し最後は自らもピストル自殺した。三島の文学の才能を世に広めだけではなく、三島に日本人としての誇りや天皇の存在など祖国の価値を指導してくれた蓮田の自死は三島に強い動揺と日本人の死生観を教えたとされる。三島由紀夫研究の専門家の間では三島の自刃自決は恩師、蓮田善明の自死が大きく強く、影響されたという見解が強い。
 以下は三島の檄文の全文である。三島の嘆きが事件から52年後の現在、日本を取り巻く、現実になっている点に着目され、諸賢の熟読を熱願するものである。 (文責:真実太郎)

三島由紀夫の経歴(新潮社サイトから借用)

(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。

三島由紀夫「檄文」全文

 われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。
 かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 
 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

三島由紀夫
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